どの道をいくべきか⑨

さいころ

あれは大阪にいるとき、東淀川区だ。

周りには団地があって、隣には幼馴染が住んでいて、姉の友達も近くに住んでいて、大きな犬を飼っていた。

マンションの中に駐輪場があった。2階だったか、4階だったか、偶数の階に住んでいて、廊下がコンクリートのようだった。コンクリートの打ち目があって、そこに小さな小さな穴が開いていた。そこから出てくるアリを、よく眺めていた。

 

家はまだダイヤル式の電話で、ジャラジャラ音がするやつ。回すのが面白くて、よく天気予報にひそかに電話していた。電話の横に、ちいさな女の子を象った陶器のつやつやしたベルのようなものがあった。何の気なしに触っていた気がする。

 

玄関からつながる廊下に姉の部屋の扉、その先にダイニングがあって、さらに居間につながる。居間は畳の部屋で、空間が大きかった気がするけど、私が小さかったから、そんなに広くなかったのかもしれない。

 

近くの駄菓子屋にしょっちゅう行って、でも実はそれは父には内緒で。父は、駄菓子は添加物の塊だと言って、私に一切お菓子を食べさせなかった。代わりにくれたのはクロレラだ。でも母は内緒でおこづかいをくれていた。

 

あのころ、父が家にいた風景を覚えていない。

 

あそこで覚えているのは父が母にお茶をぶっかけている風景と、

姉が学校になじめず、廊下からリビングに入る段差に座り込んで、泣いている姿だ。

私が3~4歳くらいのときだ。

 

私は幼稚園に行くのを嫌がる子供で、度々幼稚園バスを逃していた。

そうすると、会社に行く父の車に乗せられ、遅れて幼稚園に連れていかれた。

その車中で、何も話すことがなかった。気まずい、というわけでもないが、父は距離のある人だった。

ごく一般的な昭和の家庭。長女はしっかり者、次女は引っ込み思案でわがまま。

でもよく考えてみれば、あのころからすでに父のあの雰囲気に引きずられていたのだ。

コンプレックスの塊というか、仕事の鬼等というか、心ここにあらずというか。

 

頑張ってくれていたとは思うが、決して家庭を顧みる人ではなかった。

家庭どころか、それぞれの人格さえ。

父の頭にあったのは、昇進か。威信か。プライドか。

私たちは何だったのか。

 

私は5歳の時、幼稚園で行う夏のパレードで、太鼓隊という選ばれた子だけができるポジションを獲得するために、オーディションなるものに挑戦した。

太鼓を一生懸命家で練習したのを覚えている。

幸運にも、オーディションに受かり、太鼓隊の練習に参加することが決まった。

そんな矢先に、引っ越すと、ただそれだけを聞かされ、すぐに東京に越すことになった。

私が太鼓隊が出来なかったことに対して、なんらコメントも配慮も、父からも母からも聞かされることはなかった。

今思えば、私に刷り込まれている他人に対する期待の低さ、無関心さはこういう経験からくるのかもしれない。子供ながらに自分の無力さを思い知り、しかもそれはその後私の無意識に根深く巣食うことになる。その病巣の存在さえ気が付かないほどに。