幼児期健忘
小さいころの記憶って、ない。
なんでだろう??
と思ったのでちょいと調べてみた。
へえ、幼児期健忘というのか。@_@
嫌な記憶ほど残りやすいんだと。
嫌な記憶があるほど幼児期の記憶が残るっていう人もいるよね。
なるほどー。嫌な記憶めっちゃのこりまくってるわ。
最近人生が落ち着き、これまでの嫌な記憶を全部清算しようと思ってブログを書くに至る。
私は裏表、オンオフが激しいので、主な文章(どの道を行くべきかシリーズ)を各以外はかなり雰囲気が違うと思う。ま、いっか。
でもその辺も、思うところはあって、もともと楽しいことが好きだし、選り好みをするタイプでもない。ささやかなことを誰かと楽しむことが大好きで、なんというか、そう、地味なタイプだ。(というのが最近やっとわかってきました。)
けど、両親の不和もあって、「おどけ」になっていたし、二面性が通常運転になってしまってた。人間失格を読んだとき、ぞぞーっとしたもんだわ。
しかし嫌な記憶ほど残るなんて、やだな。
いい記憶、いい記憶・・・・。ない。
あ、幼稚園でもらってた肝油ドロップが楽しみだった。
そんぐらいかな!
どの道をいくべきか⑨
小さいころ、
あれは大阪にいるとき、東淀川区だ。
周りには団地があって、隣には幼馴染が住んでいて、姉の友達も近くに住んでいて、大きな犬を飼っていた。
マンションの中に駐輪場があった。2階だったか、4階だったか、偶数の階に住んでいて、廊下がコンクリートのようだった。コンクリートの打ち目があって、そこに小さな小さな穴が開いていた。そこから出てくるアリを、よく眺めていた。
家はまだダイヤル式の電話で、ジャラジャラ音がするやつ。回すのが面白くて、よく天気予報にひそかに電話していた。電話の横に、ちいさな女の子を象った陶器のつやつやしたベルのようなものがあった。何の気なしに触っていた気がする。
玄関からつながる廊下に姉の部屋の扉、その先にダイニングがあって、さらに居間につながる。居間は畳の部屋で、空間が大きかった気がするけど、私が小さかったから、そんなに広くなかったのかもしれない。
近くの駄菓子屋にしょっちゅう行って、でも実はそれは父には内緒で。父は、駄菓子は添加物の塊だと言って、私に一切お菓子を食べさせなかった。代わりにくれたのはクロレラだ。でも母は内緒でおこづかいをくれていた。
あのころ、父が家にいた風景を覚えていない。
あそこで覚えているのは父が母にお茶をぶっかけている風景と、
姉が学校になじめず、廊下からリビングに入る段差に座り込んで、泣いている姿だ。
私が3~4歳くらいのときだ。
私は幼稚園に行くのを嫌がる子供で、度々幼稚園バスを逃していた。
そうすると、会社に行く父の車に乗せられ、遅れて幼稚園に連れていかれた。
その車中で、何も話すことがなかった。気まずい、というわけでもないが、父は距離のある人だった。
ごく一般的な昭和の家庭。長女はしっかり者、次女は引っ込み思案でわがまま。
でもよく考えてみれば、あのころからすでに父のあの雰囲気に引きずられていたのだ。
コンプレックスの塊というか、仕事の鬼等というか、心ここにあらずというか。
頑張ってくれていたとは思うが、決して家庭を顧みる人ではなかった。
家庭どころか、それぞれの人格さえ。
父の頭にあったのは、昇進か。威信か。プライドか。
私たちは何だったのか。
私は5歳の時、幼稚園で行う夏のパレードで、太鼓隊という選ばれた子だけができるポジションを獲得するために、オーディションなるものに挑戦した。
太鼓を一生懸命家で練習したのを覚えている。
幸運にも、オーディションに受かり、太鼓隊の練習に参加することが決まった。
そんな矢先に、引っ越すと、ただそれだけを聞かされ、すぐに東京に越すことになった。
私が太鼓隊が出来なかったことに対して、なんらコメントも配慮も、父からも母からも聞かされることはなかった。
今思えば、私に刷り込まれている他人に対する期待の低さ、無関心さはこういう経験からくるのかもしれない。子供ながらに自分の無力さを思い知り、しかもそれはその後私の無意識に根深く巣食うことになる。その病巣の存在さえ気が付かないほどに。
どの道をいくべきか⑧
私はアダルトチルドレンかもしれない。
若干のADHDかもしれない。
父は自己愛性パーソナリティ障害かもしれない。
いや、境界性かな?
うつ病かもしれない。
母も少しADHDかもしれない。
何度も何度も繰り返し考えてきたことだ。
答えは出ない。私は専門家じゃないし、自分のことが仮に少しわかっても
(もちろん自分のことでさえ理解するのは難しいと、私は思う)
他人のことなんてわかりゃしない。せいぜい近しい人について、すこーし
分かる程度だ、と思う。
両親のことを考えるだけでハラワタ煮えくりかえって、仕事ですら集中できない。
涙が出てくる。集中できない。心がそういう考えにとらわれて、”自分”が大丈夫ではない日は母からのラインを無視する。平常心でいられて、”自分”が確立している調子がいい日はまともに返す。そんな自分にさえ正直懐疑的に思う。でも仕方がないし、自分にそれを許す。
そんな日を繰り返してきた。
何度も何度も何度も何度も。
そうすると、やはり不思議なもんで、「もういいかな。」
と、ふと思える瞬間が出てくる。
でも次の日には、そんな風に思った自分に「何考えてんだ」と思ったりする。
きっと、私は「道の途中」なのだ。長い長い、一つの線の上だ。もちろん、
時に分かれて、くっ付いて、先は見えないし。
でも同じことの繰り返しを経て、少しづつ何かが変わっていく。
先がある。停滞のように見えて、きっと先がある。
そう思っている。
どの道を行くべきか⑦
母は長らくしていたシルバーのアルバイトをやめるらしい。
「もういつまでやるの、って感じだし、お父さんももう毎日何もせずテレビばかり見て、趣味だった植物もやめちゃうし、なにもないのよ。それでなにかないかなあと思って、前から考えてたのよね。」
このまま死ぬまでアルバイトをするつもりではないそうで、思い切って前から考えていた家庭菜園をするらしい。
父も一緒に。
父は最初渋っていたらしい。だけどジャガイモ作って○○と○○(姉と私の名前)のとこ持っていったら、きっと喜ぶよ」
と言ったら、やると言ったそうだ。
正直迷惑だ。
そんな私は性格が悪いという事もわかっている。性格が悪いというか、幼稚というか。
ジャガイモは好きだ。家庭菜園も好きだ。野菜をもらうのも大好きだ。
でもそれを利用されるのはまっぴらごめんだ。
だけど私はそれを言わない。
「そうなのね。頑張って」
とだけ言う。
ただ、父が家庭菜園をするといったのは意外だ。そこまで私との縁に危機感を抱いているのか何なのか。
けど単純に、何もない無為な生活を送られるより、そっちの方がいい。いくら父相手といえど、毎日毎日テレビ相手に会話をするところを想像するのは、気分が悪い。
ため息がでる。
趣味さえしなくなるなんて、認知症まっしぐらだ。一人暮らしをしている私の家の住所を、毎日思い出す練習をしているらしい。けど、なかなか思い出せないらしい。
もうそこまで進んでいるのか。
それでも私は何もしない。
どの道を行くべきか⑥
母からとあるお守りを渡される。
「家族御守」
父からだそうだ。
いらないといって突き返した。
まあ、突き返したところで、母は何も言わず自分で持っているだろうし、私に渡したことになるだろう。
父に突き返してくれと、言いたいところを我慢して、何も言わない。そこまではもう私の及ぶ範囲のことではないと考える。
本当に言いたいことをここに書く。
「いや、家族御守ってなによ。いまさら家族に何を求めるわけ?
私がもうちょっと父親として私の気持ちを汲んでほしいって言ったとき、
「そんなことできない!俺は父親じゃない!女子供に何がわかる!俺は経営者だ!」
って言ったよね?心の中のことを話した、大事な時に、そんな風に言ったよね?
いつも大事な時に、そうだよね?
家族って、あなたにとって何のためにあるんですか?
自分の沽券を守るため、世間に蔑まれないようにするため、いい父親だって
自己陶酔するためじゃないですか?
誰のおかげで生きてるんだって、いったよね?
生きるための糧を与えることだけが父親の役割だっていうなら、その辺の動物だって
やっていることだし、私にとってはただの種付け役ってだけで、父親だとは
思えないよ。
父にとって、生きる糧を与えることさえ大変なことだったとはわかってるよ。
でも、だから「そんな自分を理解しろ」「何も言わずに尊敬しろ」
っていうかまってちゃんなところを見せられ続けたところで、人の気持ちは動かない
んだよ。事実、子供は生きづらさっていう大きな荷物を背負わされるんだよ。
自分、自分、自分、自分、自分ができること、自分がしたいこと、自分が認められた
いこと、自分が嫌なこと、・・・父は1番から10番まで、実はすべて自分なんだよ。
こんなお守り、まるで轢き逃げ犯に交通安全のお守りをもらっている気分だよ」
あー、すっきりした。
ニュース雑感(ヘンリー王子のADDについて)
私はヘンリー王子について何も知らないけど、
メーガン妃と結婚するとき、いろいろ言われたにもかかわらず自分の意思を貫いたのはすごいなぁと思った。ちょっとうらやましい。
キャサリン妃はたくさんの人が知っている通り、たくさんのスキャンダルや報道があったから、二人の息子さんたちは、きっと大変な思いをしたんじゃないかと漠然と感じてた。
思った以上に大変だったみたいだ。そうだよな。
ADDは私の想像できる範疇のものじゃないけど、両親は子供の前でどんな理由があろうと喧嘩しちゃいけないって、これはものすごく共感する。
ありとあらゆるステータスを持つたくさんの人間の頂点のステータスを持つような、私にとって雲の上の存在のような人でさえ、同じような気持ちを抱くことがあるのかと、なんというか、当たり前かもしれないけど、あ、そうだよな、っていうような、不思議な感覚だ。
わたしが抱えているつらさも、きっとヘンリー王子が抱えているつらさ(の一部分)も、誰かが抱えているつらさも、もう今の世の中では、当たり前のことのようだ。ありふれたことのようだ。
いっそこれは、現代社会に生きるすべての人たちが抱える闇ではなく、課題なのかもしれない。このつらさと、ともに生きていくしかないんだと。
この先の社会はいいものになるのかわかんないけど、今を生きる父親母親世代が、同じことを繰り返さず、家族の在り方が良いものになっていってほしいものだ。
どの道を行くべきか⑤
私は生まれてから6年大阪で、
その後東京、11の時から福岡に住んでいた。
その後は仕事で転々としている。
出身はどこ?こんなにめんどくさい質問はない。
福岡が一番長いから、福岡と答える。
じゃあどこどこって知ってる?
知らない。
福岡が長いとはいえ、幼少期から暮らしている人に比べると、郷土愛も知識も薄い。
知らないんだー。。。
ずっと福岡にいるわけじゃないからね^^;
一体何回このくだりを繰り返しただろう。
両親も福岡の人じゃないから、昔のことも、おいしいパン屋さんも、どこどこのだれだれさんも、知らない。私にとって遠い世界のことのように思える。
ずっとどこか一か所で暮らすって、どんな気分なんだろう。
生まれた時から住んでる家を眺めるときって、どんな思いがするんだろう。
親の小さい時からの知り合いがちょっと家を訪ねる。
幼馴染の結婚の噂話。
お正月の親族会議。
よくわからない近所のお兄さん。
そんな些細な日常のある風景は、死ぬまで私には訪れない。
そして私には、いつまでたっても朝ドラがしっくりこない。
もちろん、世の中には外国と日本を行ったり来たりしている子供だっているし、ありふれたことだっていうのはわかってるけど、思うに私は土着志向なのだ。
地に根を張って暮らし、些細な会話を交わし、ささやかな季節の移り変わりを楽しみたいという、ミニマム人間なのだ。
それが、最近わかってきた。
わが家系の中では、突然変異かもしれない。
父方のI家は、家族間の結束が薄い。むしろ仲が悪い。
私はそれは、父のせいのような気がするのだ。決めつけるつもりはない。何か私の考えが及ばないところで、何かあったのかもしれない。
けど、父は元バンドマンである一方で、父方の親族はほぼみんな先生と言われる人たちだ。代議士、お茶の先生、教師、大学教員、など等。父は教師が大嫌いだ。
どんなに頑張っても、そんなすごい人たちの中で箔のついた実績を上げることはそうそうできない、代わり映えしない、埋もれてしまう。そんな環境に、父は自分の価値を見出せなかったのかもしれない。自分をもっと見て欲しかったのかもしれない。
あえて軟派な生き方を選んだのは、そんな理由がある気がするのだ。悲しいかな、なんとなくわかってしまうのだ。
ただ周りの人たちを生きていくことを楽しむ、というには、I家は向いていなかったのだ。そんな家族の在り方が憎いやら、悲しいやら。
結局父は、結婚してから中小企業の社員になり、転勤族となる。がむしゃらに頑張って(私は振り回され)役員にまで上り詰めるが、社長になれず早期退職。独立する。
路傍の花のような、そんな生き方は、どうしたらできるんだろうか。